バイナリーオプション被害事例 第15話|勝ちでも負けでもない一行


広島県福山市で小さな花屋を営む森由紀さん(仮名・46歳)の店では、カウンターの横に注文票を綴じたバインダーが掛かっている。
開店祝いのスタンド花、誕生日の花束、法事の供花。
受け取りが済めば、票の右上に丸をつける。
キャンセルの電話があれば、一本線を引いて「取消」と書く。
線を引いた注文は、売上にも損失にも数えない。
ただ、作業台の上には、途中まで組んだ花が残ることがある。
由紀がバイナリーオプションを始めたのは、今年の春だった。
市場で仕入れる輸入花の値段が円安で上がり、為替のニュースを気にするようになったのがきっかけだった。
最初の一か月はデモ取引で操作を覚えた。そのあとA社に15万円を入金し、取引は閉店後に自宅で一日一、二回。金額は5,000円から1万円の間と決めていた。
店の売上には手をつけない。翌朝に市場へ行く日は取引をしない。決めたのはその二つだけだった。
半年近く続けて、残高は入金した額とほとんど変わっていなかった。
九月の終わりの火曜日。
その日は月末で、店は朝から法事の供花と開店祝いの注文に追われていた。閉店後に作業台を片づけ、家に戻ったのは20時半を過ぎていた。
運送会社に勤める夫は夜勤で、高校生の息子は部屋にいた。
由紀は台所のテーブルでノートパソコンを開き、米ドル/円の5分取引に1万円を入れた。
方向は「上がる」。勝てば、払い戻しは18,500円になる。
チャートは、エントリーした価格の少し上を行き来していた。
残り2分を切ったころ、価格の数字が動かなくなった。
画面の中央に、小さな円がくるくると回り始めた。
再読み込みをすると、今度はログイン画面が出た。
パスワードを入れても、画面は白いままだった。

自宅のWi-Fiを疑い、スマートフォンのモバイル通信に切り替えてアプリを開いた。
アプリも同じだった。
「接続できません。しばらくしてから再度お試しください」
動画サイトは普通に再生できた。つながらないのは、A社だけだった。
スマートフォンでA社の名前を検索すると、SNSに「入れない」「自分だけ?」という短い投稿がいくつか並んでいた。投稿の時刻は、どれもこの数分の間だった。
時計を見ると、取引が終わるはずの時刻はもう過ぎていた。
由紀はA社のお知らせページを何度か開いた。新しい掲載はなかった。
勝ったのか、負けたのか。
それとも、取引そのものがどうなったのか。

分からないまま、パソコンの前で30分ほど待った。
数分おきに再読み込みを押し、そのたびに白い画面を見た。止まる直前の画面を保存しておけばよかったと気づいたのは、しばらくしてからだった。
息子が麦茶を取りに台所へ来て、「まだ起きてるの」と言った。
由紀は「うん、ちょっと」とだけ答えた。
ログインできたのは、21時45分を過ぎたころだった。
残高は、取引に入る前と同じ数字だった。

取引履歴を開くと、21時6分の取引の結果欄に、見慣れない二文字があった。
「無効」
1万円は、残高に戻されていた。
チャートを開き直すと、21時11分の価格は、エントリーした価格をわずかに上回っていた。
お知らせページには、少し前に掲載された文章があった。
「21時9分から21時41分まで、システム障害により取引サービスがご利用いただけない状態となっておりました」
翌朝、店のシャッターを上げる前に、由紀はサポートへ問い合わせた。
返事は昼過ぎに届いた。
障害の発生中に判定時刻を迎えた取引は、利用規約に基づき無効とし、取引金額を返還した。結果の判定は行っていない。
由紀は、障害が起きる直前までエントリー価格を上回っていたことを書き、もう一度尋ねた。
「その時点では勝っていました。判定はしてもらえないのですか」
返事が来たのは、その日の閉店間際だった。
答えは変わらなかった。
障害中の価格を、正常な判定の根拠として使うことはできない。逆の方向に動いていた場合も、同じく無効になる、とも書かれていた。
規約を開くと、確かにその項目はあった。
口座を作ったときに、読んだ覚えはなかった。
最後に一つだけ尋ねた。障害が起きている間、取引画面やお知らせで状況を伝える仕組みはないのか。
告知は確認ができ次第掲載している、今後の参考にする、という返事だった。
損はしていない。
1万円は戻ってきた。
ただ、8,500円になるはずだった数字を、もう頭の中で一度受け取っていた。
それがなかったことになった。

夜勤明けの夫に話したのは、二日後の朝食のときだった。
「戻ってきたなら、よかったじゃないか」
夫はそう言って、味噌汁の椀を置いた。
由紀もそう思おうとした。勝ち負けがつかなかっただけで、何かを失ったわけではない。人に話せば、たいていは夫と同じことを言うだろう。
もし負けていたなら、無効は助かった話だったはずだ。
そう考えると、文句を言う筋合いもない気がした。
それでも、引っかかっていることが一つあった。
画面が止まっていた32分間、どこにも何も表示されなかったことだ。
自分の回線が悪いのか、A社に何か起きているのか。それすら分からずに待つしかなかった。
お知らせが出たのは、すべてが終わったあとだった。
その日の夕方、店に電話が一本入った。
週末に届ける予定だった開店祝いのスタンド花を、先方の都合で取りやめたいという。
由紀はバインダーを開き、注文票に一本線を引いて「取消」と書いた。
作業台の上には、前の晩に水揚げを済ませた白いトルコキキョウが二十本、バケツに入っていた。
あれから、由紀はA社にログインしていない。
残高は、そのまま口座に置いてある。
出金するか、また取引するかは、まだ決めていない。
ただ、取引画面を開く前に読むものが一つ増えた。規約の「システム障害時の取扱い」の項目だ。読み返したのは一度だけだが、どこに書いてあるかは覚えている。
金曜日の朝。
由紀はバケツからトルコキキョウを抜き、一本ずつ茎を切り直した。

小さなブリキの缶に五本ずつ分けて、店先の台に並べる。
値札には「本日のおすすめ 一束500円」と書いた。
最初の一束は、十時過ぎに近所の女性が買っていった。
編集部から
似た事例を何度も目にすると慣れてしまいがちですが、安全のための確認には繰り返す価値があります。
今回は、取引サービスに障害が発生し、その間に判定時刻を迎えた取引が「無効」として扱われたケースです。
バイナリーオプションでは、判定時刻の価格によって結果が決まります。障害でその価格を正常に取得・配信できない場合、事業者によっては取引を成立させず、取引金額を返還する扱いを規約で定めています。
A社は障害の発生を認め、取引金額を返還しています。規約に沿った処理で、由紀さんに金銭的な損失はありません。
一方で、障害中に利用者側では状況を確認する手段がほとんどなく、障害の告知も復旧後に掲載されました。自分の通信環境の問題なのか、サービス側の問題なのかを判断できないまま待つ時間は、金額以上に利用者を不安にさせます。
障害時の取引の扱いは、事業者によって異なります。利用前に、少なくとも次の点を確認しておきたいところです。
- システム障害が起きた場合、保有中の取引は「無効」「成立」「別の方法で判定」のどれになるのか
- 無効になった場合、返還されるのは取引金額だけか
- 障害情報はどこで、どのタイミングで告知されるのか
「無効」は、負けを取り消す扱いであると同時に、勝ちも取り消す扱いです。
画面が止まったときは、その時刻と画面の状態を記録しておくと、後の問い合わせで役立ちます。スクリーンショットが撮れない場合でも、時刻と取引内容を手元にメモしておくだけで、事業者とのやり取りがずっと具体的になります。

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公開日:2026年10月16日
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